遠藤宗家

甲賀組百人同心
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甲賀組百人同心

『過去帳』第一巻

高徳寺に伝わる『過去帳』第一巻

『寛政重修諸家譜』巻一四一二に慶長五年(1600年)、関ヶ原の合戦の前哨戦として家臣・鳥居元忠は家康公の命により石田三成らの攻撃から伏見城を死守した際、望月山中等の伏見城名古屋丸を守った甲賀衆が討ち死にし、その数は七十名におよんだと記されています。

高徳寺に伝わる過去帳の第一巻に、遠藤宗家先祖 遠藤左太夫も討ち死にした者七十名の一人として記されています。

また、『徳川実紀』には、【山岡備守景友入道、関ヶ原の戦いに味方勝利して、兇徒みな敗走するとき手の者引具し、城を出て川船にとりのり、大鳥居にさしかかる時、長束大蔵少輔家が敗走して来るにゆきあい、散々に打ちちらし、首百余切り桑原城に押し寄せ、氏家内膳正行広兄弟を降参せしめ、又神戸、亀山、水口等の城を請取り大津に参りしかば、大御所入道(家康公)がふるまいを感じ給うこと斜ならず。伏見にて討死せし甲賀士の子孫与力十人、同心百人を預けられ、近江国にて九千石の地を賜り、其内四千石を以て士卒の給分にあてられる。今の甲賀組はこれなり。】とあります。

山岡景友は、関ヶ原合戦後、敗走してくる長束正家を討ち取り、方々にあった敵の城を請け取って戦後処理を手際よく済ませて、家康公を感服させたのです。この功により甲賀衆は一万三千石を賜り、これが甲賀組の起源となったと記されています。

当時、近江の甲賀水口は鉄砲、火薬製造の盛んな所でした。その後、甲賀衆は大阪冬の陣、夏の陣でも活躍し、この戦いの際、当時としては最高の性能を有した大砲を製造しているのです。射程距離は五キロメートル程を誇っていたようです。この甲賀組の製造した大砲は戦前まで靖国神社に展示されていました。



甲賀稲荷神社

甲賀稲荷神社

氏子大総代を務めた遠藤宗家第十五代当主遠藤榮

その後、徳川幕府が江戸に開かれてより、甲賀衆も江戸に移住しました。
江戸においては、甲賀組は組屋敷を拝領します。現在の千駄ヶ谷にある国立競技場(昭和三十九年に開催されたオリンピックのメイン会場)の辺りです。その他に甲賀衆は、青山権田原にも幕府から鉄砲演習場を拝領します。その際に甲賀稲荷神社を建立しておりますが、明治十八年(1885年)、青山練兵場(現在の外苑)設置のために鳩森八幡神社に遷座、合祀されました。

昭和初期に神主であられた矢嶋宮司の著作『鳩森八幡略縁起』によると、この鳩森神社も甲賀衆と縁のある神社で、昭和十三年(1938年)五月に神社の前に安置した神像の中から、『御修覆記』並びに『奉納、甲賀百人姓名書』が出てきました。この文書は、弘化四年(1847年)のもので甲賀組が米と金を寄進したという記事が伝えられています。

その中に【御納戸同心 遠藤左太夫】と記されています。これは、明治時代に高徳寺檀家総代、甲賀稲荷神社氏子大惣代を務めた遠藤宗家 第十五代当主 遠藤榮の祖父である、遠藤宗家 第十三代当主にあたります。


※御納戸同心

将軍家の金銀、衣類、調度品などを管理する職務。

伏見城を死守した遠藤左太夫

遠藤左太夫 先祖は、甲賀武士として徳川家康公にお支えしました。


養源院

養源院

石田三成らが家康公に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、鳥居元忠は千八百人の兵力で立て籠もりました。家康公は、石田三成の伏見城明け渡しの要求を死守する為に近江瀬田城主 山岡景隆の弟景友に甲賀百人組を編成させました。その第一陣の百名の一員として甲賀組 遠藤左太夫が駆けつけ、総勢三百名に達しました。


しかしながら、遠藤左太夫をはじめとする総勢一千八百人のほぼ全員が討死しましたが、西軍 石田三成は、三千人の討死者を出しました。このときの伏見城の血染め畳は、家康公が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに討死者の精忠を偲ばせました。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養しました。床板は、「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられています。


家康公は関ヶ原の大勝後、遠藤左太夫の戦功を称え、遠藤宗家 初代以降に左太夫を襲名させました。


江戸城大手門

江戸城大手門

また、戦死者の子弟を集めて、与力十人、同心百人からなる、甲賀組を編成させました。その後、家康公が江戸城に入府し、甲賀組に江戸城の本丸と大手三門を警備する大役を与えました。江戸城の本丸は、将軍の居館であるとともに、政庁でもありました。本丸の正面大手門は、厳重に固めた三つの門からなり、順々に開けたので『大手三門』と言いました。


『大手三門』は十万石以上の譜代大名が警護しましたが、甲賀組も同様にその任務を与えられました。甲賀武士は従来より、家康公の信頼が厚く、譜代に準ずる扱いでした。遠藤左太夫は、将軍家の親衛隊というべき責任ある地位でした。


遠藤左太夫の位牌は、甲賀流忍術発祥の地である滋賀県甲賀市甲賀町の長福寺に残されています。

青山甲賀屋敷に居住していた遠藤宗家

甲賀武士であった遠藤宗家は、家康公が江戸城に入府してから青山百人町にある甲賀屋敷(後に千駄ヶ谷甲賀屋敷へ移転)に居住していました。


青山百人町は、現在の表参道駅にある善光寺周辺に位置する旧町名です。(現在の南青山/旧港区赤坂青山南町五丁目六丁目と同北町五丁目の一部)


諸国名所百景 東都青山百人町 星燈籠

諸国名所百景 東都青山百人町 星燈籠

歌川広重二代(文久元年 1861年)

地名の由来になったのは、天正十八年(1590年)譜代大名である青山忠成が、江戸城の本丸と大手三門を警備していた甲賀百人武士である与力、同心を預けられたときに拝領し、その組の組屋敷としました。百人組屋敷から「赤坂青山高樹町」に通じる道は、親不知と呼ばれ、樹木が繁っていて昼でも暗く、泣く子も泣き止んだといいます。


安政四年(1857年)版の『青山切絵図』には、松平近江守上屋敷の東南の通りに百人町とあります。遠藤宗家の墓地がある高徳寺や郡上青山家の墓地がある梅窓院、長野善光寺の別院(尼寺)が今でも残っています。


旧暦七月には、各戸に盆灯籠を高々と掲げる「星灯籠」と呼ばれる祭事が明治の初め頃まで行われていました。年々、七夕の笹と同じで「高さ」を競うようになり、これを遠くから見ると百人町の上に沢山の星が出ているように見えました。その光景は、「百人町の星燈籠」または「星提灯」と呼ばれました。


始まりは二代将軍 秀忠公が、江戸城で生涯を終えられた年からとされています。

七代将軍 家継公が目黒にお成りの帰り道、遠くからこれを目にされ、お付の者に尋ねたところ「台徳院さま(秀忠公)の菩提を弔うため、甲賀百人武士の与力・同心たちが続けている」と聞き、感心なされ報奨金を賜ったということです。それ以来、「星燈籠」は年中行事となり、青山百人町は江戸の名所となりました。


※青山甲賀町

現在の北青山/旧港区赤坂三筋町二丁目の一部で、一丁目とともに明治神宮苑に属しています。

甲賀町は御炉路町の北にあった百人組屋敷の通称です。元禄年間には、この辺りを「コウカ町」といいました。

安政四年(1857年)版の『青山切絵図』には、千駄ヶ谷の東北が御先手組・甲賀百人組などの武家地になっています。

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