桓武平氏千葉家流の遠藤家
遠藤宗家のルーツは、下記のとおり大きく二つあります。
桓武天皇像
(一)桓武平氏千葉氏流の遠藤氏
第五十代 桓武天皇を祖としながらも皇室を離れ、臣籍降下により平姓を賜りました。
千葉氏流東常慶が遠藤盛数を養子に迎え、遠藤氏を呼称して美濃国に七千五百石を領しました。
その子の遠藤慶隆は美濃斉藤氏、織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の合戦では東軍徳川家康に味方し、その功績により美濃郡上二万七千石藩主となりました。
(二)藤原南家工藤氏流の遠藤氏
藤原氏は、中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の代に認められ、藤原(工藤)為憲の後裔・相良維兼が、遠江守に任ぜられ遠藤氏を名乗ったことに始まります。為憲の父は、藤原氏である常陸国司・讃岐介藤原維幾。母は桓武天皇で平家祖高望王の娘で、桓武平氏の子孫になります。
最も古い戸籍を見てみますと戸主は遠藤宗家 第十五代当主 遠藤榮で本籍地は、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷大字千駄ヶ谷千弐番地となっています。また、戸主・榮氏の欄には次のような記載があります。
「豊多摩郡千駄ヶ谷甲賀町弐十五番地に於て出生」
この「千駄ヶ谷甲賀町」という地名は明治五年~十二年のわずかな期間だけ存在していた名称ですが、江戸時代には甲賀組の屋敷地であった場所です。江戸初期には半蔵門内外にあった甲賀組屋敷は後に上地されて、その結果、青山等に代地が給された訳ですが当地もその一つということになります。
徳川家康像
徳川家康公の命にて建立された高徳寺は、過去帳の中にも「甲賀組 遠藤」の文字が見てとれますことや戸籍、過去帳のいずれの情報からも遠藤家は徳川家幕臣であった事は証明されます。
左太夫を始祖として十三代まで「左太夫」を襲名し、名乗っていました。
理由として、慶長五年(1600年)、関ヶ原の合戦の前哨戦として家臣 鳥居元忠は家康公の命により石田三成らの攻撃から伏見城を死守した際、望月山中等の伏見城名古屋丸を守った甲賀組遠藤宗家先祖 遠藤左太夫も討ち死にした者七十名の一人として『寛政重修諸家譜』巻一四一二に記されています。
この功績に感銘を受けた徳川家康公が、「左太夫」を襲名させたと考えられます。
その他に別名として複数の名前を持っており、例えば遠藤宗家第十三代当主は「榮次郎」の名前も持っていました。
そして、冒頭の「(一)桓武平氏流の遠藤氏」「(二)藤原氏流の遠藤氏」を考えますと、より徳川家とのつながりが強いのが(一)です。つまり、遠藤宗家は(一)の桓武天皇を祖とする桓武平氏の流れを汲む遠藤氏であろうと考えられます。
旗本の家を集成した『旗本家百科事典』を見てみますと遠藤家があることが分かります。こちらは旗本以下(御家人)クラスの幕臣も全て含まれます。しかし、戸籍の本籍地、過去帳の情報からも幕臣であった事は間違いありませんが、幕府の記録と遠藤宗家の名前が一致していません。その理由として次の二点が考えられます。
一. 武士は名前を複数持っていたので、戸籍名と幕府の記録が一致しない
二. 甲賀組は機密性が高いために幕府の記録にも載せていないものがある
特に二.の理由が大きく、甲賀組の機密性の高さは歴史的事実です。
ところで、桓武天皇を祖とする(一)の遠藤氏の祖は千葉氏に婿として入った盛数となるのですが、その後は徳川家康にとりたてられて代々「但馬守」を呼称するなど幕府旗本として活躍します。
この遠藤家の本国は美濃であり、近江三上藩の藩主を務めるなど西国の家ではありますが、江戸後期には江戸に居住していたようです。
遠藤家がこの桓武天皇を祖とする「但馬守」を受領した遠藤家のどこから分かれたかという事ですが、過去帳の記載から初代の遠藤左太夫は1500年代の人物であることが分かりますので、江戸時代に入る直前の戦国期に分家したものと考えられます。
関が原の戦い
この時期の遠藤家は功が多く徳川家康に非常に取りたてられている時期ですので、初代・左太夫が徳川家康の警護で功があり取りたてられました。
そして、「関ヶ原の戦い」「家康の警護」でも功があった遠藤家だからこそ甲賀組という徳川家の中でも重要な任務を任されるに至ったと想像されます。任務の性質上、機密性が非常に高く、名前についても全てを公式記録に残すようなことはしなかったのではないかとも容易に想像されます。
「但馬守」を受領していた遠藤家の家紋は、「一亀甲」「十曜」「月星」「三亀甲」です。(「十曜」「月星」といった紋は千葉氏族の名残と思われます)
遠藤宗家は「左三つ巴」で、家紋が異なるのもどこかで分家したためと考えられます。
但し、分家したといっても、分家の初代が功多くして特殊任務を賜り、その後、十八代にもわたって繁栄を続けていることを考えますと左太夫を祖とする遠藤家は桓武平氏の由緒を引き継ぎながらも独立した宗家となります。
※桓武天皇
天平九年(737年)-延暦二十五年三月十七日(806年4月9日)
日本の第五十代天皇〔在位:天応元年四月三日(781年4月30日)-延暦二十五年三月十七日(806年4月9日)〕。
諱は山部。崩御の後に和風諡号として日本根子皇統弥照尊が、漢風諡号として桓武天皇が贈られました。
聖武天皇の治世である天平九年(737年)、天智天皇の孫、白壁王の第一王子として誕生。白壁王は、聖武天皇の父天皇である文武天皇とは従兄弟。
天応元年四月三日(781年4月30日)には光仁天皇から譲位されて天皇位に就き、翌日の四日(5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子としました。同月十五日(5月12日)に即位の詔を宣しました。延暦二年四月十八日(783年5月23日)に、藤原乙牟漏を皇后としました。皇后との間に、安殿親王(のちの平城天皇)と神野親王(のちの嵯峨天皇)を儲けました。また、夫人藤原旅子との間には大伴親王(のちの淳和天皇)が仰せられます。
※藤原(工藤)為憲
生没年不詳
平安時代中期の貴族。藤原南家・藤原武智麻呂の子孫・藤原鎌足十二代子孫。従五位下、伊豆・駿河・甲斐の遠江権守を歴任。工藤大夫を号す。
天慶二年(939年)、常陸国における従兄弟である平将門との紛争に敗れた為憲は、平貞盛と共に度々の将門の探索をかわしながら潜伏します。天慶三年(940年)二月、「新皇」を僭称した将門の追討に官軍大将の一人として貞盛・藤原秀郷と協力して将門と戦い征伐に成功し、先に将門に襲撃され抑留されていた父の維幾を救援しました。将門追討の恩賞として木工助(宮内省の宮殿造営職である木工寮の次官)に就任しました。藤原の藤と木工の工を合わせ工藤姓を興しました。家紋「庵木瓜」の創始者。尚、為憲の祖父は、上総介・従四上の藤原清夏、母は平安京の桓武天皇の孫娘に当たり、平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇と異母兄弟に当たる「第五皇子の万多親王」(延暦七年(778年)~天長七年(830年))の子「正行王」の王女。
資料作成/行政書士 丸山 学
行政書士法人あすなろ 代表、株式会社丸山事務所 代表取締役、起業家支援団体NPO法人Jungle理事
2001年8月行政書士事務所を開業。会社設立手続き、契約書作成代理、資金調達などの法務面だけでなく、マーケティングやビジネスモデルの構築など経営全般において、起業家を徹底的にサポートする。商工会等での講演やテレビ、ラジオ、雑誌等のマスコミ出演も多数。また自らの家系を900年分たどるなど、家系図作成業務にも力を入れている。
家紋は、日本固有の文化であると言えます。
「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と呼ばれる源氏、平氏、藤原氏、橘氏といった強力な氏族が最も名を馳せていた時代、地方に移り住んだ氏族の一部が他の同じ氏族の人間と区別を図るため土地の名前などを自分の家名(屋号)とし、それが後の名字となりました。家紋は家の独自性を示す固有の目印的な紋章として生まれ、名字を表す紋章としての要素が強いとされます。
平治物語絵巻
その後、武家や公家が家紋を使用するようになり、血統や元々の帰属勢力としていくつかのグループに大きく分けることができ、それぞれが代表的な家紋とそのバリエーションで構成されています。その他、各地の豪族がそれぞれ新たに創作した家紋が現代まで伝わっているものもあります。
家紋の起源は古く、平安時代後期にまで遡ります。奈良時代から調度や器物には装飾目的として様々な文様が描かれており、平安時代になると次第に調度品に文様を描くことは、視覚的な美しさだけでなく、貴族が各家固有の目印として使う特色を帯びてきました。そして、平安末期に近づくと、西園寺実季や徳大寺実能といった公家が独自の紋を牛車の胴に付け都大路でその紋を披露して歩き回り始めました。これが家紋の起こりであるという説があります。
その後、公家の間で流行し、様々な家紋が生み出されていきます。例えば上記の西園寺実季は「鞘絵」を、徳大寺実能は「木瓜」を、菅原一族などは梅紋をといった華美な紋を家紋にしています。しかしながら、文様の延長線上としての色彩的な意味合いが強く、鎌倉時代にかけて徐々に、その後の帰属の証明や家紋の意味合いや役割に、発展・変化していきました。
平家物語
武家の家紋は公家よりも遅れ、源平の対立が激化し始めた平安末期に生まれました。戦場において自分の働きを証明、また名を残す自己顕示のため各自が考えた固有の図象を旗幕、幔幕にあしらったことが、その始まりであったと考えられています。源氏が白旗、平氏が赤旗を戦場での敵味方の区別を付けやすくするための認識性のために掲げました。旗に家紋の原型となる紋章を描くことはありませんでしたが、家来である武蔵七党である児玉党は後の児玉の家紋になる「軍配団扇紋」の「唐団扇」を軍旗に描いています。このことから、武家の家紋も公家と同じく平安後期に生まれたと考えられますが、それもわずか数えられるほどで、爆発的に普及し始めるのは鎌倉時代以後でした。鎌倉中期頃にはほとんどの武士は家紋を持ち、家紋の文化は武家社会に定着していたと考えられています。
本格的な合戦が増えた鎌倉時代には、武士にとって武勲を上げる機会が増えました。そのため必然的に敵味方を区別したり、自身の手柄の確認させたりするための手段が必要となり、幔幕や幟旗、馬標や刀の鞘など、ありとあらゆる物場に家紋が入れられました。
公家社会においては、武士のように名を上げるために家紋を使用する必要はありませんでした。そのため、室町時代に入る頃にはほとんど廃れてしまいます。そもそも家を識別するために紋章を使用するという発想は武家のものであり、その存在自体が厳格な家格の序列に固定化された公家には、そうした紋章をあえて使用する必然性がありませんでした。したがって公家の家紋は「武家にならって作られた伝統」だという側面が強いとされています。
遠藤宗家の家紋は左三つ巴紋であり、巴は文様紋の代表的なものです。
平敦盛 桓武平氏維衡流
「ともえ(ともゑ)」の起りには、武具である弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、鞆絵とされています。その後、水が渦巻いているのに似通っているため、巴の字を当てたとされています。そのため、防火のまじないとされ、平安期の末期ごろから鎧瓦(軒先に葺く瓦)、車輿、衣服の文様に用いられました。
巴紋には二つ頭巴、三つ頭巴など単に巴を用いて形づくったもの。水に巴、剣巴など、巴に他の物を組み合わせたもの。また角字も巴のように他紋に似せたものの三種類があります。
神紋で巴紋を使用しているのは、宇佐八幡宮をはじめ全国各地の八幡宮が神紋として使用しています。古代の祭具である勾玉(まがたま)の形と共通する巴の形が日本人に好まれ、平安時代末から鎌倉時代前半につくられた八幡社でも、装飾に多く用いれられて、八幡宮の神紋とされました。
八幡神は源頼朝の信仰が厚く、武芸の神、弓の神として祀られ、後世にいたり、神紋と見なされるようになりました。武士はこれを巴家紋として神助を受けようとしました。
左三つ巴
巴紋の主な使用家は、承久二年(1220年)に成立した『愚管抄』巻第六に、平安時代の貴族である藤原実季長の子孫、西園寺実季が用いたことが記されています。
『源平盛衰記』には、木曽義仲の愛妾巴御前がこの文様を愛用していたことが記してあります。
室町時代以降の1460年代に成立した『見聞諸家紋』では、曾我氏、赤松氏、長尾氏、宇都宮氏などが載せられています。江戸時代以降は、丹波九鬼氏、筑後有馬氏、備中板倉氏などのほかに幕臣350家ほどが用いました。
他に、琉球王国の王家第一尚氏、第二尚氏は「三つ巴」(ヒジャイグムン・左御紋)を用いています。ヨーロッパには、三つ巴に似た「トリスケル(triskele)」という文様があり、日本では三脚巴と訳されています。
※鞆(とも)
弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具。古語では「ほむた・ほむだ」といい、鞆という字は国字。革製の丸い形で、革紐で結び
つける装身具であり武具。
鞆の歴史は古く、縄文時代の出土である鷹匠埴輪と呼ばれている埴輪には、腰に鞆(とも)をつり下げたものがかたどられています。古代日本では用いられましたが、中世頃には実用では用いず、武官の儀礼用になりました。