平常の幕政に参与できたのは、譜代大名と直参(将軍直属の家臣である旗本・御家人の総称)のみでした。
外様大名はもちろんのこと、御三家を筆頭とする将軍家の親族(新藩・家門など)も参与できませんでした。
で表しております百人組【甲賀組】遠藤宗家は、徳川将軍家直参御目見得に該当しています。
遠藤宗家「甲賀組」は、徳川幕府開府より徳川将軍家 直参御目見得(旗本)としてお仕えしていました。
現在旧江戸城内(皇居東御苑)に残る江戸時代後期に建てられた百人番所。この建造物は数少ない江戸時代の江戸城内の建物としても貴重な存在です。
一組に与力三十人、同心百人から組織され、これらは江戸城内にある鉄砲組同心百人番所にそれぞれ二十五人ずつ配属させて(二十五人掛ける四組で百人)百人同心を組織していました。この「百人同心」は平時には江戸城の警備などに従事し、戦時には将軍の隊列を護衛する重要な役目を担っていました。
旧江戸城内(皇居東御苑)百人番所
百人同心は「甲賀組」が神宮球場付近(遠藤宗家檀家 高徳寺が青山に現存・天正七年開創)、「伊賀組」が大久保、「根来組」が市ヶ谷、「二十五騎組」が内藤新宿付近に屋敷を与えられていました。この名残が現在の東京の地名に見られます。「伊賀組」の名残が新宿区百人町で、地図を見るとこの周辺が不自然に縦割りの道となっていますが、これが「伊賀組」の同心組屋敷の名残です。「根来組」の名残が新宿区市ヶ谷の矢来町に見られます。「根来組」の屋敷が竹矢来で囲まれていたことに因むと言われています。また隣接する「二十騎町」も何らかの関係があると思われます。「甲賀組」の名残は現在見られませんが、明治期には青山百人町の町名が存在していました。
こうして見てみると鉄砲組同心屋敷が甲州街道に固まっていることが分かります。これは江戸城に変事があり、万が一に将軍が江戸を脱出する際に、甲州街道を利用するために、このような配置になっていたのです。将軍は江戸城半蔵門から抜け出すと鉄砲百人組に守られながら甲州街道をひたすら進み、八王子で八王子千人同心に迎えられ、これに護衛されながら最終目的地の甲府へと向かうのです。
太田道灌像
江戸城を築城したことで有名な太田道灌資長(おおた どうかんすけなが)は、遠藤宗家第十七代当主 遠藤寬の母方の従兄弟である太田資和の祖先で、室町時代の武将、武蔵国守護代、本姓は源氏。
家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたります。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍しました。
資長は、秩父江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城しました。
『永享記』には資長が霊夢の告げによって江戸の地に城を築いたとあります。また、『関八州古戦録』には品川沖を航行していた資長の舟に九城(このしろ)という魚が踊り入り、これを吉兆と喜び江戸に城を築くことを思い立ったという話になっています。これらの霊異談は弱体化していた古族江戸氏を婉曲に退去させるための口実という説があります。
江戸城が完成して品川から居館を遷したのは、長禄元年(1457年5月1日)であったと言い伝えられています。江戸城の守護として日枝神社をはじめ、築土神社や平河天満宮など今に残る多くの神社を江戸城周辺に勧請、造営しました。
栗原藩は、遠藤宗家 第十七代当主 遠藤寬の母方祖先にあたる、下総国葛飾郡栗原郷(現在の千葉県船橋市)に存在した藩です。
陣屋の場所は不詳ですが、かつて桓武平氏流 千葉氏 高城氏の支城であった小栗原城及び藩主であった成瀬氏の菩提寺のあった宝成寺の周辺(船橋市西船から本中山一帯)と推定されています。
石神井城址
新編姓氏家系辞書によると「下総(桓武平氏流千葉氏族)迊瑳郡栗原郷より出る。千葉系図に、正の子観秀、栗原禅師と註がある」と記述されています。文明九年(1477年)、扇谷上杉氏方 太田道灌とともに千葉自胤が石神井城攻めに参加しており、合戦後、この一帯を桓武平氏である、千葉一族の栗原氏が領有しました。
石神井の有力地主であった石神井村村長 栗原鉚三は、遠藤宗家 第十七代当主 遠藤寬の母方祖父にあたります。
上石神井村の名主として栗原家に伝わっていた文書類は、練馬区役所に保管されています。天保二年(1831年)の「議定一札之事(板橋宿代助郷御免除相願度ニ付)」から昭和八年の「石神井案内」まで52点が現存しています。江戸時代の文書は、天保期(1830~44年)の助郷や慶応四年(1868年)の「信忠隊三宝寺江止宿諸入用覚帳」など旧幕府諸隊に関わるものが残っています。
栗原家文書
近代の文書では、明治四十一年の「御願(豊島氏貴重品池中探索ニ付)」、昭和六年の「東京府立公園設置願」など石神井村に関するものが伝わっています。
また江戸時代の上石神井村絵図面や地租改正事業に伴い作成されたと考えられる、明治初期の上石神井村地引絵図などの絵図、地図も多く残されています。江戸後期以降の上石神井村・石神井村の様相を伝える文書類が残り、地域の歴史を知ることのできる資料です。
栗原鉚三村長の代表的な功績として、明治四十五年に発足した武蔵野鉄道(現西武池袋線)の開通に向け、石神井公園駅 駅舎敷地の五千余坪を寄付し、鉄道敷設に賛意を表した旨の碑文を刻み、大正九年に造立されました。
大正四年に池袋から飯能までの全線開通し、火車(汽車)が二時間に一本走るようになり、多くの人々が石神井公園内にある三宝寺池周辺へ訪れるようになりました。
石神井火車站之碑
昭和九年、栗原鉚三村長の所有する田んぼに三宝寺池の湧水を引いて石神井池(ボート池)を人工的に造られると、ますます行楽地として人々に親しまれるようになりました。
栗原家は代々、旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などをふくむ広大な土地を所有していました。
そのことから、栗原鉚三等が石神井村村長等を歴任し、現在の練馬区の基礎を構築しました。現在も石神井公園の歩行ルートとして、栗原家長屋門(現在も住居門として使用)が練馬区観光協会ガイドマップに掲載されています。
この長屋門は、明治初期の建築と伝えられ、桁行7間(約12.7m)、梁間2間(約3.6m)入母屋造り、トタン葺き(当初は、茅葺き)で、軒を深く突き出した「せがい造り」は当家の高い格式を示しています。国道から長屋門正面に入る専用通路脇には、現在でも防空壕跡が残されています。
栗原家長屋門
※せがい造り(せがい出し梁り造り)
深い軒先をつくるため、本桁から梁を突き出して桁をのせ、この部分に天井を張る構法で、格式ある家の象徴です。
軒を長くすることで、強い風雨や陽射しを遮る効果があります。機能性と重厚感のある伝統工法です。